昭和54年09月01日 月次祭
(途中から)
神様のご都合なんだ。風が吹くをしおに、又その松のもとに帰って来るおかげになるんだから、ね。人を恨むとかあれが、ね、もうほんとうにあればかりは見そこのうた、と言う様な事ではなくて、自分のしゅうへんには神様のそういう働きがいっぱいなんだと信ずる事だ。はぁ今月はどうもそういう月になりそうです、とこう言うわけです。ね。しかし有り難いですね。政治をされる方達が皆合楽にお参りして来ると良い政治が出来るかと思います。(笑い)
今月の言うならば市政の指針というものを、まぁ月々頂いて、そして市政にたずさわるね、世界真の平和というのはそういう様な、私は心がけの人達が政り事をするという様な事になってこなければいけない。「和賀心時代を創る」とこう言う。ね、それにはね私の力とか知恵とかと、先ほど栄四郎が申しておりましたように、いや六年間で分かり得た事は自分でしようとして出来る事ではないんだと。親先生が言うように「吾無能無才にして」と言われるが、確かに無能無才なのだ。ね。
神様のおかげを頂かねばここ一寸が動けない自分であると言う事を悟らせて頂く。いわゆる、「障子一重がままならぬ、人の身である」と言う事が分かれば分かる程、縋らずにはおられない。自分の我情でじゃない。いうなら御神意にそいまつる生き方をつとめながら、おかげを頂いて行くのである。今日竹内市長にもその事を話したんです。今日はこの人達を見て、こうこうだって。こういう話をさせて頂いた。中に二、三日前から頂きます様にお道の信心をさせて頂いて、ね。
それこそ世界総氏子が助からなければならない。その世界総氏子が助からなければならないのに、あれは飲んではいけないぞ、これは食べてはいけないぞと、あぁしてはいけない、こうしてはいけないと言う様な、厳しいもし戒律があるとするならば、そういう宗教では皆が助かる事は出来ない。ね。それこそあれは孔子の言葉でしょうか、ね、「小人閑居(かんきょ)して、不善を無す」という。私共の生神を目指すという信心は聖人しじりを目指すのとは違うのだと。聖人君子を目指すのとは違うのだ。
私共は一小人なのだ。小さい人間なのだ。ね、成程閑居(かんきょ)すれば不善をなす私なのだ。けれども教祖はその不善の中に、不善でないものを悟っておられる。今までこれを不善なこ、不善だと思うておった事は勿論お礼を申しあげねばならない事だという、人間が人間らしゅう生きて行くと言う手立てを、ね、教えによって説かれた。ね。あぁだからこうだからと教えられた、それとても私共はです、先ほど栄四郎が申しましたようになかなか出来ん。こうすりゃ親が喜ぶ事は分かっとるけれども。
お父さんには喜んでもらえんから、せめてお母さんになっとん喜んでもらう信心をという風に申しておりました。ね、その話はしてましたけども、私は話を聞きながら感じた事はこの人が例えばです、ね、出来る事だけにより一生懸命、いうならば命をかけておる。一生懸命とは、一生命をかけると言う事である。ね、もう皆が寝静まっておる中に、矢張り何十巻なら、何十巻という大祓い信行は。
これだけはやろうと思えば出来る事。だから出来る事を一生懸命に勤めるという所に私はお道の信心があると思うんです。人間が人間らしゅう修行させて頂けれる。ね、そこからね、いうならば神様の働きが又、新たに起こって来るわけであります。今日は午後の奉仕をしておりましたら、北野の関さんが毎朝朝の御祈念に参ってみえますが、今日午後からは、あー、お供え物を持ってお参りされた。
電車そして久留米のバス停でお手洗いにやらせて頂いた。お供え物をそこの台の上に置いて、風呂敷の下に自分のカバンをこう、手提げカバンを置いて、それで手洗いに行って帰ってくるほんっちょっとわずかの間でしたけれどもカバンが無かった。今までなら、ね、私はあらぁと思うたであろうけれども、もう私は今日ばっかりは自分がここまでお育てを頂いておると言う事を改めて神様にお礼を申しました。
と言うてお礼を申しておりました。ね。「やれ痛や今みがげを」という心になれよと仰るが、神様があの位な事でお取り祓いを頂いたと言う様なものが一瞬頭にひらめいた。あらとも思わなかった、どうした奴じゃろうか持って行ったのは。誰、どこの奴じゃろうかとも思わなかった。ただあるものは神様へお礼を申し上げる事ばっかりでした、と言うてその事のお礼が今日ありました。変われば変わるもんですね。関さんと言や皆さんも御承知のように、大変気性の激しい方。
もう対人間関係でもそれこそもう大変な、その内容そういう意味でも持っておられる方なんですけれどもね。泥棒を恨む所ではないね、もうその瞬間私の心の中にひらめいたものは、はぁおかげを頂いたもうお取祓いを頂いた、というのが実感でした。人間の心というのは、それこそその語源をころころと言うんだそうですけれども、そのころころと変って行くその心がおかげをキャッチ出来れる心。いうなら和賀心。ね。
有難いと思う心にどんな場合であっても、有り難いという答えの出て来るような心の使い方の稽古である。踊りを踊る人が身のこなしを稽古する様に。又いつの間にかその身のこなしが素晴らしいこなしになってくる様に、信心の稽古をさせて頂く者はいつの間にか自分の心のこなしというものが自由自在に、いや神様が喜んで頂く心の状態にころころと変えていけれると言う事が、私はお道の信心だと思うです。そして今も申しますように、私共がさせて頂く信心と言うものは、教祖生神金光大神が、ね。
「生神とはここに神が生まれると言う事」であってと。私はねさぁ問われた。どうすりゃいいじゃろうかと思わずにねおかげ頂いたと。そういう心の状態が我ながら我が心が拝みたい、いつの間にこういう風に変って来たのであろうかと、その和賀心の中に合掌できる心、それを私は生神の心だと思う。そういう心が育って行くと言う事。その有難いの一念で今まで出来なかった事が出来るようになり、言うなら朝起きが出来なかった者が出来るようになり、ね。
我情が強かった我欲が強かった者が、己ずと我情が取れ我欲が取れて、ね「わが身は神徳の中に生かされてある」喜びを謳歌しながら、信心生活が出来るという、ね、そこにはね、出来ないからと言う事に、いくら今日の栄四郎の話じゃないけれども出来ない。けれどもこれだけなら出来る。だからその事をうまずたゆまず一生懸命に、いや大祓い信行にかけておると言う様な感じである。
親も見ておって安心である。こういう生き方で行きゃいつか神様がね、朝の時間をそれこそ自分の命のように大事にできれる時が来るだろう。そういう時が天の心と地の心が一つになった時だと言う風に思うのです。まだ24の若さでそんな天の心、地の心が足ろうという様な事があって、まぁよかろうはずもない。また頂けるはずもない。けれどもね、精進をしておると言う事なんです。
今日は朝から遠隔地からのご参拝で、まぁ朝からにぎわっておりました。もう本当にもう驚くばかりです。佐賀山口辺りの支部の方達が支部、皆支部員の方達を、必ず新しい人達を同道して、いわゆるお導きして参って来る。それがもう皆もうそれこそ不思議な不思議なおかげを頂いて、はぁもうとにかく今日のお参りというのを指おり数えて、それこそもう待ちどうしゅうて待ちどうしゅうてたまらん。
私はそれを聞きながら、信心とはこれだと思う。憧念心なんだ。神様へ通う所の心というのは、神様をの上にです、ね、言うならばもうそれこそ胸が痛うなる様に神様の事を思い続けれる事になってくる。ね。御利益を受けるから、おかげを受けるからではなくてです、ね、いうなら神様と合楽しあえるひと時。ね、そこから初めて「あいよかけよ」の働きが生まれて来る。合楽しあうそこから生み出されて来るおかげを本当の言うならばおかげという。下さいと言うて頂くというおかげではない。
神様と喜び合え合楽しおうて。そこから生まれて来る所のおかげを私共は頂きたい。ね。そういう過程を信心に求める所からです、ね、神様のご信用も付いてくる。それこそライオンとトラが一緒にままになっておるという。ね。昨日月末の御礼信話会でしたから、お二人夫婦で昨日初めて合楽にご縁を頂いて二年間、あん二年初めてあの月末御礼信話会に出たとこう言っておられます。そりゃもう皆さんも御承知のように、大変熱心です。奥さんはとうとう両眼がもう失明された。
所がお店の上に起きてくるおかげの事。それから奥さんの言うならば心の眼が開けて来る。まぁ御心眼という。ね、もう神様がお店の事でもうお伺いが出来られる位に、もうその日々お届けがあります。そのお届けを聞かせてもらいよるとこっちが有難うなるような、あの日々です。ご主人というのは、まだ神様にお知らせ頂いた事もないけれども、先日初めて頂いたのが、神様からあの「賞」という字を書いた賞状を頂いて、ね、それに神官と書いてある、いわゆる神主さんの事である。
もうお道の教師としてのおとり立て、言うなら神格を頂かれた、といった様な感じ。そして、小さいお皿に梅干が一つのっとると。ね、梅干と言やここでは信心辛抱梅の花と言われるように、それこそ寒い寒中にふくいくとして、香りをはなつ堅いつぼみの時分から、ね。それをじと辛抱して、他の花に咲きがけて咲く花である。花が咲いた頃には、まぁ言うならばうぐいすも来てとまる程しのおかげにもなる。その花が散ってそして青い実になり、ね、それが打ち落とされてしそとなじむ、それから梅干になる。
これがお徳である。信心辛抱のお徳である。梅干というのは、はい信心辛抱のお徳を今受けられよる所じゃろうねと言うて、まぁ申しました事でしたけれども、それには自分の願い。第一一番始めが奥さんの目を、その開眼のおかげを頂きたいというのが始まりであった。所があかる所ではない、愈々見えなくなってしまった。そういう中にです、言うならばライオンがままになり、虎がままになる所のおかげを頂いておられる。ね、私共がまずおかげを頂きたい頂きたいと言うけれども。
まずは神様が、まず神様の願いが先に成就する。神様がままになられる、ね、親先生が先にままなられる。その後にままになるおかげというのが、私はお徳だと思う。神様に喜んで頂く信心とはそういう信心だ。そりゃもう御用ももう本当にもう、夫婦でそれこそ真心いっぱいの御用が出来ます。お参りもなら熱心に出来ます。そしてそういう難儀な中にあっても不平言うどころではない、不足言うどころではない。もう愈々もって神様へ近づかせて頂く手立てだけを、一生懸命精進しておられる。ね。
そこに虎がままになり、ライオンがままになって来る。ね、その向こうに言うならば加藤家のままになるところのおかげというのが約束されるわけであります。願うた事がね、成就すると言うのは大したおかげではない。右と願っても左、左と願っても右になるといったような時こそ、ね、神様の願いが成就しておる時だと教えられます。言うならばあの鼓(つづみ)も千鳥掛けのように。ね、千鳥掛けのようにそれが締め上げられる時に初めて良い音色がでるように。右と願えば左、左と願えば右。
そういう時にです愈々ご神意の深さを分からせてもろうて「落ちぶれてそでに涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる」では無くて、ね、「神の心の奥ぞ知らるる」という信心になった時。ね、言うならば、神様がままになられる事が先である。ね、願った事が成就する、それは大したおかげじゃない。願った事が右が左、左が右となる時ほど尊いおかげを頂いておる時、今こそ力を頂いておる時として、一心の信心させて頂く所から、もうそこには願いではない。ね、思いではない。
それこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開となるのである。ね。そういうおかげを初めて神様が喜んで下さるおかげと言う事になるのではないでしょうか。そういう信心を頂くのは難しか、と言うのではなくて人間が人間らしゅう、私の事を評してある方が、ね、神様都々逸を歌わせたもうという、言葉がございますが。ね、それこそ神様都々逸を歌わせたもう、たもうのである。人間なんだ。ね、人間のいうなら生身を持っておる人間が。人間らしゅう生きて行くという事である。
今まではこれは不善だと思うておった事は、むしろ御の字をつけて頂く事によると、ね、神様の御恩恵と言う事になる。不善なものと言うものはないと言うて、極端にね人を殺すとか、泥棒せろかと言う意味じゃないです、ね。過去にどういう忌まわしい事が有ったにいたしても、それは一切お礼を申し上げる事以外にはないと言う事なのです。そういう信心を、私は生神を目指す信心だと思う。ね。何万に一人あるかないか分からない様な、聖人君子と言った様な者を目指すのではない。
もう人間がその身そのままの、例えばさっき ほど栄四郎が申しましたように、もう本当に残念なほどに出来ない。泣きたいほどに出来ない。こうすれば親先生が喜ぶ事が分かってあるんだけれども出来ない。ね、と言うて、ならそれを投げるのではなくて、やっぱり願い続けておる。そして、これだけなら出来ると、んなら夜の大祓い信行に命をかけておる様なものを私は感じるんですけれども、ね、それで良いのです。そこから段々出来てくる。その関さんの話じゃないけれども。
いつの間にこういう心が、お育て頂いておっただろうかと、自分の心に合掌したい様な心をです、ね、自分の心に感じさせてもらう時に、信心は愈々有り難いもの楽しいものになって来る。愉快になって来る。リズムが聞こえてくるようになる。そのリズムに乗っての信心、そこには不思議なんです。ね。一生懸命浪花節が、ほのう声を嗄らしてあれはそれこそ陰のみすじというリズムがあるから、出らん声が出るのです。
天地のリズムが聞こえて来るようになると、今まで出来なかった事が不思議に有り難く聞こえるようになるんです。ほりゃ私が一番それを体験させて頂いておる。私のような人間が今日このようにおかげを受けておると言う事も。そういう一つの天地のリズムに乗っての日々であった所から、出来ない事が出来るようになり、こう思えなかった事が思えるようになり、ね、そしてもうまぁそれこそこれからこれまで出来なければおかげはやらんだのと仰るのではなくてです、ね。
まぁ言うなら吾偽者の自覚が出来て、それで偽者でほっておくのではなくて、今日の偽者はもう明日の自分ではない。明日はもうちったましな自分に成らせて頂くという様に、ね、それこそ昨日の信話会に私頂きました、日勝り月勝りと仰せられるが、ね、それに年勝り代勝りというのがありますけれども、私共はその日勝りを感じ、ね、月勝りが感じられる位な、一つおかげを頂きたいですね。それをこの腹で感じれる様なおかげを頂きたいです。ね、為には愈々です私なりの信心。
だからそれで良いです、だからそれが一生懸命のものにならなきゃいけんのです。ね、朝起きが出来んならんなら夜でも良い昼でも良い、ね、それが一生懸命ならこれで済んだとは思いませんという、それで良いと言う事ではない。ね、少しはましな信心にお取立てを頂きたい、進めさせて頂きたいという願いを持ちながら出来るだけの信心。そして生身を持っておる人間ですから、ね、あれも食べても良いこれを食べても良い、ただ食べ過ぎ、「大酒大食は絶食の元」と仰るのですから、ね。
その辺の所を言わばコントロールさせて頂きながら、それこそ人間らしゅう生神様を目指して行こうというのがお道の信心だという風に思います。どうぞ今月は昨日私はあの御心眼に頂いた、しかっとこうあの各帯をきちっとこう締めた人が後ろに扇子をさしている所を頂いた。うちわじゃない扇子をです。ね。これは矢張りこう末広のおかげと思うんです。ね、ですからいやあの本当に日勝り月勝りのおかげを感じれる位な、それにはもう一辺、この信心の帯を締めなおさせてもろうて、今月の信心に取り組みたいと思います。
どうぞ。